煮えたぎる春の臭さ(キリンジを聴きながら)

気分というものは厄介なもので、自分ではどうしようものないものじゃあないでしょうか。キリンジを聴きながら、そんなことを思ったりしています。

 

春は、なんだか気分があがらない。

なぜなんでしょう。暖かくなるというだけで、気分が落ちこむのは。春は、埃っぽくて、臭い。外も地下鉄も、こもったような臭さに気が滅入る。人間もなんだかとたんに胡散臭くなってきませんか。あの、探り合いのような、様子見のような、そんなかかわり合いにめまいがしてしまいます。

 

自分を良く見せようとするのが、ぼくは苦手で、いろんなところで損をしてきました。これからも、きっと、損をし続けるでしょう。よく言えば、正直なんでしょうが、この正直さは社会相手には何の武器にもならないどころか、甲冑を身に着けていない村人のごとく、武士に斬り倒されていくばかり。社会は悪くないです。そういう社会なら甲冑を身に着けるくらいの対応ができないぼくがヘタレなのです。

 

ひとり、どこか広い草原に寝そべり、ゆっくり流れる雲なんか見て、晩ごはん何にしようか、そんなことを考えて生きてみたい。せわしなく動く社会とは無縁な草原に立つ小さな小屋に素朴な少女、ヤギなんか飼ったりして、お乳で作ったクッキーをほおばりながら、遠い外国の話をする。そこには現実なんて存在しない。膨大な夢想と物語のつまった小さな小屋で死ぬまで過ごしたい。夢見心地なぬるま湯でのぼせるくらい。

 

ぼくも、ひとりの人間である以上、社会に接しなければならない。そんなことは分かっているけど、どうしても現実を直視することができない。これから、自分をだましだまし生きていくのだろうと考えると、気が滅入る。

 

春は、そんな社会の新たなスタートの季節ということで、ひどく臭うのでしょう。桜の木の下には死体が埋まっているといいますが、花見をしている彼らの胸中にも「自分自身」という死体が横たわっていると、ぼくはなんだかひどく眠い頭でそんなことを考えるのです。